〜西部とマウンテンバイク〜                      WYOゆうこ

 

昔、開拓者は新天地を求め、幌馬車で“命がけ”の旅に出た。
我々夫婦は、トヨタのピックアップトラックで“命の洗濯”の旅に出る。予約も小刻みなスケジュールもない旅。地図が頼りの気ままな旅をしていると、思いがけなく面白い事や場所に遭遇する事がある。それこそ飛行機では味わえない“現代版幌馬車”旅行の醍醐味である。

★ “墓石”という名の町

カリフォルニア旅行の帰り道、そろそろI-10を走るのに飽きてきた我々はアリゾナ州ツーソンの東40マイルほど先でハイウェイ80がメキシコ国境付近まで南下し再びニューメキシコでI-10に合流しているのを地図で見つけ、40マイル程遠回りにはなるがまあ行ってみようという事になった。乾いた草が風になびく大小の丘を通り抜けると“TOMBSTONE(トゥームストーン)”という町に着いた。  

この名前から、何年も前に上映されたカート・ラッセルとヴァル・キルモア主演の“TOMBSTONE”という映画を思い出す人がいるかもしれない。そう、我々夫婦が寄り道して偶然着いた所が、あのワイアット・アープとドック・ホリデーで知られる有名な「オーケー牧場(OK CORRAL)」跡が実在するその町だったのである。いやぁ、こんな所にあったのかと驚いた。

町自体は普通の観光地と化していたが、古いTOMBSTONE COURTHOUSEには当時の洋服や銃などと共に決闘場面の詳細が展示されており、イラスト入りの説明書きを読むにつれ100年以上前にワイアット・アープが本当にいたんだと改めて実感。複雑な人間関係が引き起こした決闘の様子を38年後の1919年にアープ自身が描いた絵も残っている。

OK CORRALの決闘後、幾度も撃ち合いを経験しその度に無傷で生き延びた彼は1929年にロサンジェルスで眠るように亡くなったという。“TOMBSTONE”にとってワイアット・アープは今も伝説として生き続けるが、彼にとって“墓石”という名のこの町がどんな風に生き続けていったのだろうか。

★ 最後のネイティブ・アメリカン戦士

ハイウェイ80を更に南下しメキシコ国境近くまで来ると、“APACHE”という町のサインを通り過ごした。その後“GERONIMO SURRENDER MONUMENT”のサインと円柱の塔が見えた時には、慌てて我々夫婦の“幌馬車”にブレーキがかかった。それはジェロニモとその一族がアメリカ軍に投降し、アメリカ最後の“INDIAN WAR”が終わった事を記念する碑だったのである。

1886年にアメリカ軍全体の1/4にあたる兵士5000人とメキシコ兵3000人に追撃されたジェロニモは、16人の戦士、13人の女性、6人の子供と共にこの辺りで投降したらしい。フロリダのMarion砦に送られて1909年に死去したジェロニモの遺体はオクラホマのSill砦にあるアパッチ族の墓地に埋葬されたという。

大小の石を積み上げたその塔には、昔人々が使ったと思われるひき臼の石が幾つも埋め込まれてあった。当時メキシコ領地だったこの一帯でネイティブ・アメリカンの人々もこのひき臼を使ってトウモロコシなどをひいたのだろう。ひき臼の中心部はどれも浅く窪み表面はつるつるしている。ひょっとするとジェロニモやその一族が使ったものかもしれない。

通る車も殆どない道端に最後の戦士となったジェロニモへの思いを込め建てられた石塔を前に、我々夫婦は黙って見上げるばかりだった。

 

 

 

★ 怪我がトロフィー

サウスダコタ州のRAPID CITYで自転車屋のお兄ちゃんが、「ノース(ダコタ)に行くなら、MEDORA(メドラ)に行きな」と薦めてくれたその町は、THEODORE ROOSEVELT 国立公園の南に位置する小さな小さな町。あの“テディーベアー”の名前の由来となったルーズベルト大統領がこよなく愛した土地だ。

行ってみてサウス(ダコタ)のお兄ちゃんに大感謝。何故って、メドラに一つしかない自転車屋さんが午後になると店を閉め、行きたい人達を連れて無料ガイドをしてくれるからだ。観光ガイドではない。セミプロレベルのお兄ちゃん達についてトレールを自転車で走るのである。これに我々夫婦が飛びつかないはずはない。前記の国立公園内のライドは禁止だが、付近には100マイル以上も続くMAAH DAAH HEY TRAIL(マダヘイ・トレール)の他、様々なトレールがある。店のお兄ちゃんはこのマダヘイトレールの中級コースを選んでくれ、我々夫婦と一緒に走ってくれた。

メドラのトレールは専門誌でも取り上げられ比較的平坦なトレールの部類に入るが、ぺッタンコのテキサスから来た我々夫婦にとっては平坦なんてもんじゃない。大きくカーブする丘が登ったり下ったりで、とてつもなく長く続く。

 

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